会長を辞してから桜萩会の資料を整理していたら設立当事の藁半紙にガリ版刷りの黄ばんだ資料が出てきました。桜萩会のホ−ムページを開設した時にこれから桜萩会の歴史を順次載せてゆきますと大見得をきりましたが、なかなか資料の整理が出来なくて未だHPの紹介欄は空欄になっております。今回から本文を随時HPに掲載したいと考えております。
さて桜萩会の前身は昭和43年12月設立の「小林中学関東地区同窓会」(小林中学関東地区同窓会会則第一条)であります。そこに新たに小林中学校、小林高等女学校、小林高等学校を加えて桜萩会が発足しました。
単純に言いますと、そもそものきっかけは高校駅伝の全国出場の寄付をどうやって集めようかでありました。
昭和50年の9月頃だったか田中三蔵(高2回)氏より何とかまとめましょうよとの電話があり、その話に乗ったことが、小生が30年もの長い間、桜萩会に係わることになったわけであります。因みに田中氏は小林高校駅伝部の創設時のキャプテンです。そして桜萩会設立の発起人西野間幸雄(中15)、森山誠一(中15)、立野輝二(中17)、橋口和人(高1)、田中三蔵(高2)、塩入初男(高17)の各氏を中心に新しい同窓会の設立に向けて動き始めました。急遽その年の12月に桜萩会の発起人総会と小林中学校関東地区同窓会の最後の総会と高校駅伝の寄付集めを兼ねた合同の総会を目白のとある和風の料亭で開催しました。そこで会長に森永貞一郎氏、幹事長に瀬戸山幸一氏、副幹事長に西野間幸雄氏と橋口和人氏、そして事務局を田中三蔵氏と塩入初男氏にお願いし又各学年幹事をも決めて貰い新しいスタートが始まったわけです。
そして昭和51年12月18日に桜萩会の設立総会を京橋会館で開催し、関東地区の同窓会として正式名称「宮崎県立小林中学校、小林高等女学校、小林高等学校関東地区同窓会」が発足したのです。但しこの時は未だ「桜萩会」という名称では呼ばれておりませんでした。
ところがここで桜萩会にとって対外的に重要な問題がひとつ起きたのです。この問題はその後ずっと尾を引くこととなります。
桜萩会としては、この後、桜萩会の歴史の中で財政的にも組織的にも最も困難な創設期を向かえることになります。
次回、それをどうやって乗り越えてきたのか、又その時に起きた問題をどの様に解決しようとしたかに就いて振り返ってみたいと思います。
尚、文中の森永貞一郎氏と西野間幸雄氏は既に物故者となられております。
合掌
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